昭和41年08月10日 朝の御理解
何の稽古でも同じであろうと思いますが、信心の稽古も又稽古すればする程切りがない、限りが無い。しかも何時も分からん所へ突入して行く。ですから私共の人知をもって人間の浅はかな考え方、知恵をもって分かるような神様ではないのですけれども、そんなら分からんからと云って放っとく訳にはいけない。分からん事が段々皆さんでも信心を頂かれる様になって。今迄全然知らなかった事を知っておいていられる、分かって行かれる様に、分からん事が分からん事として放任されたのでは信心の向上はない。
おかげの世界もそこでうまってしまう。ですから絶えず信心の稽古をさせて貰って、今迄分からなかった事がそう云う事であったかと分かる世界をだんだん広めて行かなければなりません。それはね、頭で分かったというのではいけんです。書物を読んで分かったと云うのでもいけん。話を聞いて分からせて貰うと云うだけでもいけん。自分のそれが心身から一つの体験に依ってです、又は翻然として心の中に一つの悟りを開かせて頂いて分かって行くと云うもんでなからないけんのです。
ですからね、たいてい分かりたい分かりたいと云う願いを持っておかなければ出来ません。そこに翻然としたものが生まれて来る。それはもう貴方のもの。それにそれだけでよいかと云うとそうでもない。もう限りが無い。恐らく一生そうして行く事で御座いましょうね。お互い、それが信心、初めに分かった事が矢張り生涯同じ事として、終ったんではそれは本当の事じゃない。
と、云うて分からんからと云うて、放任しておく事でもいけない。分からん事は自分の体験をもってそれが分かって行く。そしておかげの世界をだんだん広く大きく、しかも深いものにして行かなければいけない。まあ信心しておかげを頂いて行くと、日々の働きが、日々の報酬に依って賄われて行く。それには一つもゆとりが無い。余裕が無い、溜めて行くと云うものが無い。是ではやっぱりいけないですね。矢張りそれが、貯えられていかなければいけんです。
今朝から私はね、天の銀行に、地の蔵を頂きました。お互いが、一つ天の銀行に取り引き出来る様にならないけん。同時に地に蔵を建てなければいけん。もちろんそれは一つの蔵を持って居る人もあれば、五つも十も持っておる人も御座いましょう。銀行に取引があるからと云っても。ただ信用に依って、信用を作ればですね、矢張り銀行が貸出をやってくれる様に、ただ貸出を受けれる信用を持って居るだけ人と、預けている預金をして行くと言う人もある。
それも、一万円預けて居る人もおろう、十万円預けている人もある。百万円預けている人もある。そこに私が云うんです、信心が分からん、分からんではいけません。分からなかった世界が段々分かるおかげを頂かなければいけません。体験をもって自分のものにして行く、心の中に頂かして頂き悟りをもって段々その地の蔵も、天の銀行も例えば貯えも信用も多くいよいよ間違いのないものになって行かなければいけん。
必要なものが必要に応じてと。と云うてもね、矢張りその人の信用程度とね、又は預金の程度と持って受けずばならんです。地の蔵にどれだけのものが入っておっても十人で使う分なら充分あるけれど、二十人で使う時にはもう足りないと云う事ではいけないから、信心を進めて行かなければいけない。昨日おとといでしたか、末永さんが学院に行っておる末永さんが夏休みで帰って来ておる。まあ色々お話をさせて頂いた聞かせて頂いたりしたんですけれども、今年大体百名あまりの学院生がおられるそうですね。
ですから云うならば本部の力と云うか、百人しか賄う力しかないと云う事なんですよ。だからそれで良いと云う事ではないでしょう。矢張り二百人が三百人になって行かなければいけんでしょう。道の為により道の発展の為に御取次をなさる様な先生が段々多く出来て行かなければならない。皆さんの所で例えば一つの事業をしたりお店を出したりする。矢張り使用人と云うものが三人が四人も五人も十人も段々使える様にならなければいけません。それはそこの店の云うならそこのお店の力なんです。
如何に私がバタバタした所で、どんなにお願いした所で現在の所椛目で七、八十人のお届けしか御座いません。日曜なんかは多いですね。三百位あるけど、日曜日はこの位、普通の日はこの位、月次祭の時にはこの位と云う、矢張り力と云うものはそんなに変動があるものじゃありません。そこに神様の間違いなさと云うものを私は感じる。ですからどうでも、言うなら二百人の参拝があるおかげが頂きたいと思うならば、私がそれだけの力を頂かん事には出来ん。そうでしょうが。
皆さんの所では日々の御商売なさるのに売上がです、そんなにどんぶりがあるもんじゃないでしょうが。昨日と今日はちょっと違うとったけれども、一カ月と云う累計を取って見ると大体変わらんでしょうが。それが御徳を落としますとそれがまた減っても行く。いみっても行くと是はもう絶対のものなんですね、神様が下さると云うものは。ですからそう云う様な所に自分の頂いておる神様の御信用と力とそうでしょう。
銀行でも初めの間は信用があって貸出があってましたけれど、どうもこの頃あの人は信用にならないと云う事になるとパッとストップになるでしょう。もう貸出は出来ませんと信用の程度なんです。ですからその信用を又獲得する為の努力が必要であります様に、是も同じ事が言えます。お互いがどうでもその為にはです、分からん事が一つ本当が分からなければいけんと云う事。ですから本気で勉強しなければいけん。
十年前に覚えたこの位ばっかりの事を、その様に思い込んでしまってそれから一つも前に一歩も出ようとしない、勉強しようとする人がいない。もうこんなもんだと自分で決めてしまう、それではいけませんですね。恐らくもう限りが無い。ですから矢張り信心の稽古をさせて頂くと云う事。本気で研かせて頂く、改まらせても頂くと云う事。ですから皆さん天の銀行に一つ口座を設けさせて貰えるだけの信心、神様の御信用を頂けれるだけの信心。どうでしょうかね。
様に是だけは信じて頂いておる、是では神様が信じなさる筈が無いと、自分で矢張り言うたり思うたりする位な事ではやっぱいけません。出来ませんけれども是だけは、神様が何時も受け取っいておいて下さっておる。是だけは、神様が信じておって下さって居る、もちろんそれはこちらが、神様を信ずる度合にも依る事で御座います。神様は信ずる氏子を信ずると仰るのですから、同時に矢張り、地の蔵と私は天の銀行と云う事は、何時も頂きよったけれど、地の蔵と云う事は今日初めて頂いた。
何故ってお金だけではいけませんもん。人間は本当人間必要な幸せな生活をしていく為の必要な所謂必需品と云う物がです、蔵には一杯貯えられておらなければいけんのです食物も御座いましょう衣料品も御座いましょう。そこにですね、私は皆さんが開眼するそういうおかげを頂かなければならんと開眼する。昨夜の御祈念の後でした。久富クニカさんがお届けされるのに、今朝方からお夢を頂いた。そのお夢にはね財産の全部を、神様にお供えしておるのは親先生だけだと云う事を。
それにクニカさんが思われよる。ほんに私もそういうおかげを頂きたいと思うておる所で目が覚めたと。椛目でですね全部の財産を神様にお供えしておるのは親先生だけだ、と言う事だと私もそう言うおかげを頂きたい、今持っておる家屋敷をですね、みんな神様にお供えせんならんと云いよると〇〇教の様になってしまいますから、そう云う事では御座いませんよね、信心はお道の信心は。
けれどもそれよりに難しいです。実を云うとそれはね、思い切りが出来ると、出来ぬ事でしょうが。けれども金光様の信心は、神様に全部の財産をお供えすると云う事はですね、実際の現物をお供えする事よりも難しいのです。今私が申します本当の事が分かると云う事。本当の事が分かる。翻然としてそれが悟れると云う事。一物だって私するものは何にもこの世にはないのだと。
一切神様の物だといやお預かり物だと。こういう姿が我欲を捨てた姿です。話して見るとそれだけの事なんだけれども、実際自分がそうだと実感出来るまでには中々それは、全部の財産を実際に現物をお供えするよりも難しいのです。そこに信心の稽古が必要なのです。ですから例えば、十円の金でも無駄にはお断り無しには使えないと云う事になる。一千円二千円位は好きに使う。一万円はお伺いして使うそう云う事ではいかん。
昨夜の御理解にね、こんな御理解頂いたんですよ。まあそう云う様な事も含まれて居るんでしょうね。夕涼みなんかする時、床木出して進むでしょう腰掛けるでしょう。二人で腰掛けてるでしょう。黙って一人が立つと片方がひっくり返って仕舞う。私もそういう意味ではなくて信心させて頂く者の心掛けとしてですね、本当にね。立ってもしゃがんでも、横になるでも立つでも。
神様のお許しを頂いて御神意を伺うような気持ちでいかないけん。云うならば部屋に入る時、先ずノックしなければならない事がエチケットである様に、信心させて頂く者のエチケットなんです。只今から何処そこにやらせて頂きます。只今から漬物切らせて貰います。只今から神様御飯を炊かせて貰いますがよろしいでしょうかと云うて、お伺いする位の気持ちがいるまぁ、まぁまいっときしたから炊けと。神様が言われる様な気持ちがする、位な所まではすぐ皆さん頂ける様になると思う。
一時間座って御祈念されなくても稽古なさってご覧なさい。神様が胸の中にちゃんと来なさる。今から何処そこに行こうと思いますけれども、もう本当に今まで行きたいと思とったのが、いやぁになって来る事があるのです、行こうごとなくなって来る。あら神様が行くなと言いよんなさるとです。だからそういう稽古をなさらないかんのです。お供えなんか下げる時先生方にやかましく言うんです。
つうと行って下げてからと、本当に神様が下げても良いと言わっしゃってから、下ぐると云う位な慎重さがないと出来んと、そういう様な事が度重なって行くからです、初めの間は神様は、こらえておられるけれども、私共が人と床木に掛けて居るでしょう、黙って立つもんだから神様がひっくり返んなさる。そうすると、神様は五回十回は堪えんなさるけれども、神様はこげん奴はとばっかり、本当に思って神様の方からすっぽぬかしなさる。黙って立ちなさる。
だからこちらがころりとひっくり返えらんならん。それをお気付けと申します。その時にはどうぞ自分の胸に手を置いてご覧なさい。何時も神様をひっくり返す様な、すっぽ抜かす様な事ばかり、黙ってしてしまっているんですよ。久富繁雄さんも昨日はそんなお知らせを頂いて居られるんです。丁度二人でモッコを担ぐ様なもんだと、先生は床机に掛けて居られることを頂かれたが、私は二人でモッコを担いで居る所を、一人がすっぽ抜かしたらもう一緒の事は出来ないんだと。
そこに神と氏子が仲良うする信心とか、氏子あっての神、神あっての氏子と云う風にです、もうそこからしか生まれて来ないのがお道の信心のおかげなんです。ですから、さあ担ぐばのとこう合図してからじゃないといかんと。立ちますよ、黙って立つもんじゃからと、云う様な御理解を昨夜頂いたんですけれどね。是がほんなら例えば、ノックしてから入りますと云うそれがエチケットだと、信心のエチケットだと云う風に頂きよったですけれども、神様にそういう御迷惑を掛けると云う事は、私は知らなかった。
いま迄それは精進した事がなかった。私が黙って事を為すと云う事はです。神様を言わば、すかたん喰らわせる様な事になる。吾が良かごとのごつしよらせんですか、そして困った結果になってしまったものを、どうぞ神様お願いしますと、言って居る様な事じゃないでしょか。こう云う事ではです、今日私が言う何時まで経っても、神様の御信用は付かんでしょうね。何時までも、天の銀行との取引は開始されません。同時に私は他にもあろうと思います。
地に蔵を建てると云う事。私が何時も言う成行きを大事に尊ばせて頂くと、云う事だとこう思います。成行きを大事にさせて頂くと云う事に依ってです、地の蔵が建つならば。信心を本気で、分からん分からんと云うのではなくてですね、そりゃぁ分らんもう何時もが分からん分からんなのですけれども、昨日分からなかった事が今日分かって居るけれども。もう明日の事が分からんと云うのである。それが信心の向上なんです。
もういよいよ分からん世界に突入して行くでしょう。分からん事が広くなって行くでしょう。本当に五里霧中と云う事になるでしょう。だからと云う、てそのまんまにしておると云う訳にいかんのが信心なんです。こう云う事じゃったと、まあそれはですね、皆さん段々信心が分かっておいでられてそれを実感される様になるとですね、第一お届けの内容が変わって来るです。
皆さんの、お願いしますお願いしますばっかり言いよった人が、本当に相済みませんと云う事に成って来るんですよ。又はおかげを頂きまして、有り難う御座いますになって来るのです。それは分かって来るからなんです。それだけで良いかと云うと、そんなもんじゃないと云う事。もう恐らく一生が修行なのです。一生が分からん事に、取り組んで行くのが信心なんです。
そして少しづつ分かって行くと云うおかげを頂かせて貰うと云う事。そこに精進がいるのだ、修行がいるのだ。と腕こまねいているだけでは悟りは開けん。本気でその道を教えて下さる道を行じさせて頂いて初めて翻然としたものが開けて来る。そこに私は天の信用がいよいよ頂けてくる。成行きを尊ばして頂くと云う事、精進させて頂くと云う事がです、一体に成って行く所の信心。
そらもう神様にお任せしとるけん、どうにか成るとじゃろ、神様が良か事して下さるじゃろと云う様なです、そう云う事では、成行きを尊ぶと云う事にはならん。成行きを大事にすると云う事にはならん。片一方にそうして言わば、絶えまざるところの精進があって、初めてその成行きを大事に、時節を待ってとこうおっしゃる、時節を待たして頂くのでなからなければ。
本当のおかげにはなって来ない。そういうまだそれだけでは御座いますまいけれど、そういう生き方、有り方にならせて頂いてです、いよいよ天の銀行そして、地の蔵が頂けて、おかげ頂ける様な、その様なおかげを頂ける為にです、どうぞ二人でモッコを担いで居る様な気持ち、心掛けとしてそして私がです、我が侭気ままな事をすればです、神様に御迷惑を掛けるんだと。
自分が引っくり返っておる苦しみを、もし感じているならばです、神様に何時もすかたん喰らわしておる様な事を先ず詫びなければいけん。それからはいちいちです、御取次を頂いて今私が申します様に、ここに参って来て、お願いすると云うだけではなくてです、一事が万事に留める事ではありません。それが信心の稽古なんだから、今日はちょっと、何処そこに行こうと思いますがと云うて、例えば、御祈念でもさせて貰う気持ちなんです。今から御飯を炊かせて貰います。
今から、お便所に立たせて頂きます、本当にそれなんです。私しはですね、私は言わば、口はばかった事を申しますしてね、私に隙があったら何時でもいいから、どこからでも打ち込んで来んのと申します。私は寝るでも起きるでもです、お神様を頂いて居るから、神様がおかげを下さると思って居るんです。私は信心させて頂いて、そこが出来ん様では、そこんとこを稽古しなさいではですね、言わば本当の事には、何時まで経っても成って行かないと思います。
何時も神様と一緒、神我と共にあると言った様な事。成程あるでしょうけれどもです、その神様は、例えば私共を、白い目で眺めて御座るだけの神様だったらどうしますか。こげん奴ばっかりと云う風に見て居られたらどうですか。一遍位ひっくり返ったっちゃ良かと云う位の見方をされたらどうするですか。是が例えて云うならばですね、それがお粗末御無礼な事であってもです。
こんな事じゃ、神様お嫌いな事分かっているけれども、けれども、矢張りお取次頂かなければ居られんと云う様な事。ですから、神様はまあ、大目に見てからしょうがなかと云うて、お許しを頂くと云う事なんですよ。ですから、私は信心の稽古をさせて頂いてですね、いわゆる信心、神様と私共が密なる交流と云う事がかね、分るにはそうした信心が為されなければいけない。
そして皆さん願うところは、其の事と云う事も願いもしなければなりません、それともですその事に依って天の銀行が、その言わば交渉が出来て行きよる時に、この事をもって地に蔵が建つ、今その基礎が出来て居るんだと、云う風な頂き方をして行かなければならんと思うんですね。
どうぞ。